「必要」と「有益」
言葉で表そうとすると難しいのぅ〜
言葉は常に曖昧で、かなりの幅がありますから人によってイメージが異なるものです。。
ワシの感覚としては、世の中のほとんどのことは有益なもので、必要なものと言えば食べ物や水が一番に想起されるところだが、人によっては、娯楽的なものも必要なものと表現する。
どちらが正しいとか誤りとか言うことではない。言葉の解釈の違いなだけである。
米の値段が社会問題として報道の中心となり、現在もたびたび取り上げられている。
新型コロナが社会活動を止めた時にその差が少し見えたような気がしたのはワシだけかのぅ〜
自民党アレコレ
参議院議員選挙において議席を減らした自民党の話題が報道を賑わしているが、報道を見ながら素朴な疑問が幾つか頭を過ぎる。
まず、自民党総裁というのは自民党議員にとってどういう存在なのだろうか。
自民党内で石破下ろしの動き?
組織論的には不思議なもんです。
曲がりなりにもトップに選ばれた人物を全力で支えて日本の、そして国民のためになる政治を実現して行くのが政治家の役割りであり、組織としての基本だと思うのだが、この組織において協力意識は皆無だと国民に対して自白してる
ようなもんじゃな。
選挙の結果は石破政権に対してNOが突き付けられたのだ、と口走る自民党議員もいるが、その議員は国民の意思を見誤っておるように思う。石破政権にNOではなく、自民党議員の立ち居振る舞い全てがこの結果を招いておるわけで、そこに愛想尽かした結果であることを鑑みれば、自民党全体が政治の看板を下ろすくらいの責任を各々の議員が感じて然るべきだと思うが、その意識は低いようじゃな。
選挙の大敗の結果責任が石破総裁にはある
、という自民党議員もいる。確かに、戦いに敗北した責任はトップが取るのは一般社会でも普通のことではあるが、それを自民党議員求めているのが滑稽である。どういう立場でものを言っているのか客観的な視点が皆無であり、そのような議員に政治を担わせていて大丈夫なのか?と不安に駆られてしまうのはわしだけじゃろか?
そもそも選挙の大敗の責任というのは誰に対する責任のことなんじゃろか?
政治家は唯一国民に対して責任を感じながら仕事をしてもらう存在であって欲しいと思う。
国民の心を踏み躙るような失言をする大臣などは政治の世界から去ってもらいたいもんじゃ。
国民もきちんとどういう人物なのかをしっかりと見極め一票を投じてもらいたい。
しばらくは政局がどう運営されていくのか不透明であるが、どんな形であろうとこの国が良い方向に進むように政治家には行動してもらいたいもんじゃな。
「適正価格」とは?そして令和米騒動
米の値段が短期間で約2倍ほどに跳ね上がり、店頭販売では5キロで4〜5千円の価格帯となってしまった。報道では、関係各方面の人々(生産者、流通業者、小売業者、政治家など)にそれぞれに「適正価格はいくらぐらいだと思われますか?」との質問を投げかけ、それぞれの回答にバラつきが見える。また、似たような質問として「現在の価格は高いと思いますか?」というような問い掛けを行い、各関係者がこれまたバラつきのある意見を述べている場面も映し出されていた。
こうも立場でバラつきがあるものなのかと、何とも言えない気持ちになるとともに、適正価格にバラつきがあり過ぎることには少し違和感を覚えた。
そもそも「適正価格」とは何か、言葉の定義をおさらいしておく必要があると感じたので、日本国語大辞典を見るに、
「適正価格とは、原価を適正に計算し定めた値段」と記している。
このことから考えると報道で目にする各方々の発言がまともかどうか、また、現在の価格やこれまでの価格が適正なのかが見えてくるのではなかろうか。
命を繋ぐ「食」というものの価値観を見直す良いタイミングになれば良いのぅ〜。
「異次元の」
この言葉を最近よく耳にする。
一つはメジャーリーグで活躍されている大谷翔平選手を賛辞する際に「異次元の選手だ」などのように使われている。もう一つは「異次元の少子化対策」と岸田総理自らが評してる政策である。
ちなみに大谷選手が自らのことを「異次元」と評したという場面を見たことはワシの記憶する限りでは一度も無い。
逆に岸田総理が掲げる「異次元の少子化対策」を岸田総理以外の人が「異次元だ」と評価したコメントを見た記憶が無い。
客観的に見て、どちらが「異次元」という表現に相応しい印象を与えているかは一目瞭然であるのではなかろうか。
よく「異次元の」などと自ら言えたものだなと、その感覚に首を傾げてしまうのはワシだけであろうか。言った手前、もう引っ込められないが、本人自身、「異次元の」は言い過ぎたなと感じてるのではなかろうか。
この言葉が今年の流行語大賞になり、岸田総理と大谷選手のお二人が授賞式に呼ばれるような結果となれば面白いのぅ。
「自己成長」のために
つくづく世の中には講演会やセミナーってのが無数にあるもんですなぁ〜。
自分を成長させるために手当たり次第参加していたらそれだけで人生が終わってしまいますぞ。
見渡すと「私は今日で〇〇〇回目の参加です。」と誇らしげに語っている方が居るが、
聴く回数の数と成長度合いは必ずしも一致しない気がするので、このような物言いをされる方に対して個人的にはあまり好感を持てない。
ま、否定もしないが。
成長させるために人の話を聴くことはとても重要であることは間違いのないことではあるが、聴いた話をどれだけ自分の人生に活かせるかが一番大事なのだろうと思う。
人の話を100聴いて1活かす人も居れば、1聴いて100活かす人も居る。
出来ることならワシは後者の人で有りたいと思う。
なぜなら時間は有限だから。
また、成長させることが善で、成長させなければならないという圧迫感のある風潮にも少し危惧している。生きているだけで色々なことに直面し、それを対処することで意識しなくとも成長しているのだから、無理に成長を強要して心を削ることまで求めなくとも良いと感じる今日この頃。
とはいえ、成長を志す人達は素晴らしいので、その方達を否定するわけではない。むしろ尊敬に値する。
心だけは壊さぬように。
「己を貫く」と「わがまま」
自分を曲げずに生き方を貫くのは難しい。
「己を貫く」人生を送った人は賞賛の対象となるが、
往々にして「わがまま」というレッテルを貼られることに至る。
この2つの言葉の違いはどこにあるのだろうか。
短期的視野で事を運ぶこと勿れ
結果が出るように成るまでには時間を要する。
良く植物に準えて「種を撒く」という表現が使われるが、結果が出るようにしたい気持ちより「結果を出したい」と気持ちが早る人は、その人的には「種撒き」をしてるつもりで、その内容を聞いてみると「餌を撒いている」という事実が存在する。
即座に結果を出したい、謂わば狩猟系は陥りがちではなかろうかと思う。
どちらも結果を得るために行う行動であり、どちらも間違ってはいない。
しかし、種蒔きが必要であるにも関わらず、餌を撒いていても、その先に芽が出て花が咲くような状況が生まれることは無い。
似て非なるもの。言葉とは難しいものである。
どのような未来を目指すかで、種を撒くのか餌を撒くのか明確に使い分ける感性が必要なのかもしれんのぅ〜。